Masukナイフの刃に映った光は、細く、冷たかった。
グラスの中の水面が、ナイフの光を細く返した。 未央の声が落ちたあと、テーブルの上の空気だけが固まったように感じた。弦楽器の音は続いている。司会者の声も、会場の奥ではまだ誰かの紹介をしている。けれど、私たちの周りだけ、少し遅れて別の時間になった。 未央は笑っていた。 三年前、父の前で額を押さえていた時と同じ顔。痛がるふりをする前の、ほんの一瞬の顔だ。「三年前のこと、もう誤解は解けたの?」 近くの席の視線がこちらへ向く。 榊財団の理事の女性が、手にしていたグラスを静かにテーブルへ置いた。司は未央の腕を掴みかけて、やめる。遅い。いつも、少しだけ遅い。 私は膝の上のナプキンを指で押さえた。 布は乾いているのに、指先だけが湿っている。「何の話でしょうか」 自分でも意外なほど、声は平らだった。 未央の眉が、わずかに跳ねる。「忘れたの? お姉――いえ、朝霧さん。三年前、如月家で起きたことよ。会社それだけ言って、私は視線を戻した。 握っていた手を緩めると、律の指が名残惜しそうに離れた。私は膝の上で、自分の指先をそっと包んだ。 榊邸に着く頃には、夕方の光が庭の端に傾いていた。 書斎には、高瀬さんと情報管理部の主任がすでに来ていた。テーブルの上に、青嶺療養院の登記簿、運営会社の概要、KMSとの取引履歴の一覧が並んでいる。 どれも、医療記録ではない。 公開情報と、契約上取得できる範囲の資料。そこを高瀬さんが何度も確認した。「こちらから出すのは、面会申入れ書と記録保全通知です」 高瀬さんが説明する。「対象者の氏名は、現時点では九条葵さんとは書けません。葛城氏から提供された旧管理番号と、KMSの支払記録上の識別コードで照会します。回答を拒否される可能性は高いです」「拒否されたら」「拒否理由を文書で求めます。電話だけで終わらせません」 声は淡々としていた。 その淡々さに救われた。 私は頷いた。机の上の照会文は、まだ一枚目だった。「その照会まで進めてください」 その時、情報管理部の主任の端末が短く鳴った。 彼は画面を見て、眉をひそめた。「青嶺療養院の警備システム、外部委託先が判明しました。榊グループとは直接契約がありませんが、保守会社がうちの取引先と同じ系列です。契約上開示可能な範囲で、障害受付番号と発生時刻だけなら照会できます」「障害情報?」 私は聞き返した。「監視カメラや入退館管理に不具合が出た場合、保守会社側に時刻と機器番号だけが残ります。映像の中身は見られません」「中身じゃなく、壊れた時間だけ」「その時刻だけです」 主任は保守会社の担当窓口へ照会を投げた。返答が戻るまで、部屋の時計の秒針だけが妙に大きく聞こえた。 十分ほど後、一次回答として、無機質な一覧が送られてきた。機器番号、施設名、発生時刻、復旧時刻、受付番号。 青嶺療養院。 今日の午後三時十二分。 正面玄関カメラ、東棟廊下カメラ、家族面談室前カメラ。 三つの欄に、同じ時
「どうして、私が肖像画を見たと分かるんですか」『分かりません。ただ、彼ならそう考える』 車窓を流れる街路樹の影が、シートの上を横切った。 見ていたわけではない。 でも、康生という人間の動きを、葛城は読み慣れている。 その事実も、気持ちが悪かった。「青嶺療養院に、こちらから正式な照会を入れます」 高瀬さんの声が、回線に入った。「ただし、朝霧さんは現時点で法的な親族確認が取れていません。医療情報の開示は求められません。できるのは、面会申入れと、施設利用者の安全確認、記録保全の要請までです」「それでお願いします」 私はすぐに言った。 葵さんが本当にそこにいても、いきなり病室まで行けるわけではない。もし本人に「会いたくない」と言われたら、それまでだ。 その考えだけで、喉が詰まった。「本人に会えるかどうか、正式な手続きで確認してください」 言い終えると、回線の向こうでキーボードを打つ音がした。高瀬さんが、もう文面を作り始めているらしい。前席では相良さんが施設名を検索していた。『それがいい』 葛城が言った。 その声に、安堵の色が混ざった気がして、私は眉を寄せた。「あなたに、いいと言われる筋合いはありません」『そうですね』 やはり、葛城は怒らない。 怒られないぶん、どこまで届いているのか分からない。 通話を終えると、車内が急に静かになった。 高瀬さんは榊邸で合流することになり、青嶺療養院への照会文を先に作成するという。相良さんはすでに、別の端末で施設の登記情報と運営会社を確認していた。 皆が動いている。 なのに、私は窓の外の景色を見たまま、しばらく何もできなかった。 葵は生きているかもしれない。 母かもしれない人が、どこかの療養院で、外からの声を遮られているかもしれない。 喜びは来なかった。 代わりに、ひどく重たいものが胸の奥に沈んだ。「朝霧さん」 律が言った。「……証
その返事で、やっとわずかに背筋が伸びた。 車は次の信号を曲がり、大通りへ出た。 榊邸へ戻るより先に、高瀬さんから連絡が入った。 車載の通話システムではなく、相良さんの端末に着信が入る。相良さんは短く確認し、後部座席へ向けて画面を見せた。 葛城静司。 その名前を見るだけで、胃の奥が少し冷える。 律が私を見た。「出ますか」「出ます」 私は一度だけ頷いた。 相良さんが通話を高瀬さん経由の会議回線に切り替えた。録音の確認が入り、葛城も同意した。数秒の確認を待つ間、私はシートに背を預けた。以前なら焦れたはずなのに、今日はそのまま待てた。『九条本邸へ行かれたそうですね』 葛城の声は、いつもと同じく穏やかだった。 穏やかすぎる。「見てたんですか」『いいえ。九条康生が、慌ただしく動き始めました』 それを見ていた、という意味では同じだと思った。 私は窓の外へ視線を戻す。「九条葵さんの、今の居場所は分かったんですか」 前に聞いた、数年前の話を繰り返すつもりはなかった。 回線の向こうで、紙をめくる音がした。『以前お伝えした所在から、記録を追っています』「今は」『確認中です』「便利な言葉ですね」 刺々しくなった。 それでも、葛城は怒らなかった。『あなたにそう言われるのは、仕方がありません』「仕方がないで済ませないでください」 声が少し上がった。 律は止めない。 葛城は数秒黙った。『青嶺療養院という施設があります』 知らない名前だった。 けれど、相良さんの手が前席で止まる。律も、その名に反応した。『表向きは長期療養とリハビリを扱う私設の医療施設です。経営母体は何度か変わっていますが、現在の運営会社の主要取引先に、KMSメディカルサポートが入っている』「KMS」 以前、画面の中で見た名前が戻ってくる。 律が、短く息を逃がした。
九条本邸の門を出るまで、誰もほとんど口を開かなかった。 膝に置いたバッグが傾いた。持ち直そうとしても、指に余計な力が入った。 車のドアが閉まる音が、やけに近く聞こえた。外の空気は冷たいはずなのに、掌の内側だけが熱い。バッグの持ち手を握りすぎて、指の関節が少し痛んでいた。 本人が答えられる状態でもない。 康生の言葉が、耳の奥に残っている。 葛城が知っていたのは、数年前までの所在だった。療養施設にいるという情報も、まだ確かめられていない。 けれど康生は、今の葵さんの状態を知っているように言った。 本人が答えられないのか。あの人が、答えさせたくないのか。 康隆さんの震えた手を思い出す。二人は、どこまで同じことを知っているのだろう。「朝霧さん」 隣から、律が声をかけた。「……大丈夫です。続けてください」 言い切ると、ページをめくる音だけが残った。誰もすぐには次を口にしない。「呼吸が浅いです」 言われて、ようやく息を深く吸った。 窓ガラスに映る顔から目を逸らし、ゆっくり吐いた。 私は息を整えながら、小さく頭を下げた。「謝ることじゃありません」 さっき、康隆さんにも言われた言葉だった。 同じ言葉なのに、聞こえ方は違った。 私は頭を上げた。律はもうこちらを見ていなかった。窓の外へ視線を戻している。それが少し助かった。 私は窓の外を見る。 九条本邸の塀が後ろへ流れていく。高い塀。古い樹木。磨かれた門。あの内側で、誰かの人生が二十四年、畳まれたままになっているかもしれない。「榊さん」「……どう思いましたか」「康生さんは、嘘をつきましたか」 律は短く間を置き、それから私の方へ顔を向けた。 車の中には、エンジンの低い音と、前席で相良さんが資料ケースを閉じる音だけがあった。「断定はできません」「そう返されると思いました」「では、別の言い方をします」 律は少しだけ
濃いスーツに、薄い色のネクタイ。葬儀場で見た時と同じように、顔には余計な感情がない。むしろ、この部屋の温度を測りに来た人間のようだった。「兄さん」 康生は、康隆さんを見て柔らかく言った。「お疲れじゃありませんか」 心配する声の形をしていた。 でも、その視線はすぐにテーブルの写真へ落ちた。「古いものを出されたのですね」 康隆さんの顔が強張る。「康生。今は私が招いた客人と話してる」「ですから、心配してるのです。記憶は、年を取るほど都合のいい形に変わります」 康生の目が、私へ向いた。「朝霧さん。あなたも、これ以上曖昧な話に巻き込まれる必要はないでしょう」「巻き込んだのは、どなたですか」 自分でも驚くほど、声が静かだった。 康生は微笑んだ。 笑みの形だけが、きれいだった。「あなたは、いつもそうやって自分が被害者の席に座ろうとする」 康隆さんが、杖を握り直した。 けれど、私は先に口を開いた。「席を用意した覚えはありません」 康生の笑みが消えかけた。「九条葵さんのお子さんは、本当に亡くなったんですか」 康隆さんと顧問弁護士が、同時にこちらを見た。 康隆さんが何か言いかける。康生はその前に、テーブルの資料へ手を伸ばした。 高瀬さんが、すぐに言った。「その資料は、閲覧中の記録物です。九条家側の許可範囲に基づき、こちらで番号を振っています。移動する場合は双方確認のうえでお願いします」 康生の手が止まる。 律は口を挟まなかったが、車椅子をわずかに前へ出した。 康生が資料へ手を伸ばすなら、すぐ止められる位置だった。 その動きだけで、私は質問を続けられた。「記録では、亡くなっています」 康生は、ようやく答えた。「記録では」 私は繰り返した。「あなた自身は、見ましたか」「二十四年前のことです」「見たかどうかだけ、答えてください」 康生の目から、葬儀
テーブルの上に、古い封筒が置かれた。 封は開いている。中から出されたのは、写真の複写と、行事の名簿のような紙だった。「これは葵が二十歳の頃の写真です。肖像画より少し後のものだ」 康隆さんは、写真をこちらへ滑らせた。 私は手を伸ばしかけて、止めた。 高瀬さんが先に資料番号を読み上げ、撮影の許可を確認する。九条家側の弁護士が頷く。複写のみ。原本の持ち出し不可。閲覧記録に署名。 必要な手続きが済んでから、私は写真を手に取った。 若い女性が庭で笑っていた。 肖像画よりずっと無防備だった。髪が少し乱れていて、片手でスカートの裾を押さえている。隣に立つ誰かの腕が、画面の端に写っている。 その目が、こちらを向いていた。 私は写真をすぐに伏せた。「見ないのですか」 康隆さんが小さく訊いた。「見ました」 答える声が低くなった。「これ以上見たら、今ここで、何かを決めてしまいそうなので」 母だと。 この人の子だと。 決めたくて、決めたくなかった。 証拠より先に心が走れば、また誰かに利用される。そう分かっているのに、写真の中の目は、私の胸の内側へまっすぐ指を入れてくる。 康隆さんの顔がわずかに歪んだ。「葵の子が生きてるかもしれないと、考えたことは」 私は顔を上げた。「一度もなかったんですか」 問いは、思ったより鋭く出た。 康隆さんは答えなかった。 庭の木の葉が、窓の向こうで揺れている。部屋の中には風は入ってこない。なのに、テーブルの上の薄い紙だけが、端を震わせているように見えた。「考えました」 ようやく、康隆さんが言った。「考えた日もあります。葵が何度も、赤ん坊の声がすると言った時期があった。けれど、医師は混乱だと言い、康生は、これ以上刺激するなと言った」「赤ん坊の声」 聞き返すまで、少し間が空いた。「葵さんは、そう言ったんですか」「ええ。でも、出産後の葵は、ひどく不安定でした。事故の後遺症も
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







